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FUGADEN JOURNAL — No.14

庭の探求が、神道の探求になった。

英国で学んだ「足し算の庭」への違和感。自分の国を何も知らなかった、という気づき。神社に足を踏み入れた日に、庭の探求が神道の探求へ変わりはじめたことについて。

イギリスで、庭を学びました。

なだらかな丘。計算された位置に置かれた池と古木。視線を誘うガゼボ。人の知性と感性が描く、絵画のような自然です。留学していた頃の私は、これこそ目指すべき最高峰だと信じていました。

日本に戻り、その学びを敷地の中に組み立てていきました。庭ができあがるたびに、達成感はありました。けれど、つくればつくるほど、胸の奥に言葉にならない違和感が積もっていきました。

人の手で整え続けなければ保てない美しさを、この国の風土の中で足していく。それが、私の本当につくりたい庭なのだろうか、と。

何も知らなかった

西洋の庭の理屈なら、いくらでも語ることができました。

ところが、日本の土地で、日本の植物と向き合ったとき、気づいたのです。自分が生まれ育った国の美意識について、私は何ひとつ本質を分かっていない、と。

何も知らない自分に、腹が立って仕方がありませんでした。

神社に、足を踏み入れた

そんなときに目に入ったのが、各地に佇む鎮守の森でした。

足を踏み入れると、噴水も、彫刻もありません。あるのは、ただそこにある巨石と、天に向かって伸びる古木と、地面を覆う苔だけです。社殿は自然を従えるのではなく、その生命力の前に、静かに佇んでいます。

それなのに、空間の格が保たれている。何百年、何千年を経ても、色褪せない。

なぜなのか。その答えを探しはじめたとき、庭の探求は、神道の探求に変わっていました。

足していくのではなく、人の都合を削ぎ落としていく。そこにあったのは、徹底した「引き算」でした。

知らず知らずのうちに、歩いている

私たち日本人は、生まれてから、知らず知らずのうちに神道を歩み続けています。七五三、ひな祭り、七夕、成人式。地域のお祭りや行事も、そうです。

日本の神は、八百万の神。自然の中のすべてに、神様が宿るとされています。なかでも天照大御神は、日本の総氏神とされています。

山、川、海。田んぼや稲。トイレや台所。あらゆるところに神様が宿ると、信じられてきました。それは、私たち日本人の資質です。

私は神職ではありません。語れることは限られています。だから強く訴えることはせず、歩いた記録を、文章と映像で残しています。

映像は神々の庭の YouTube チャンネルで、行き着いた「引き算」の空間論は『神々の庭を翻訳する』でご覧いただけます。

Landscape Translation|文脈を、風景にする。

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